2020年5月28日視点を変えて考えてみる
以前、「お笑いや小説で会話のセンスを磨く」という記事を書きました。
小説を読むとセンスのよい会話が見つかる、それが自分の話し方にも活かせる、ということを書きました。
今回は考え方や物事の捉え方でも小説は勉強になる、ということを述べたいと思います。
最近、有川浩さんの「図書館戦争」シリーズを読みました。
15年ほど前に出版され、アニメや映画にもなったので、読まれた方も多いと思います。
このシリーズの中のあるエピソードで、私は問題の解決法を学びました。
この本は、書籍の内容やその中で使用する言葉などに対する検閲が非常に厳しい架空の世の中を舞台にしています。
そうした中で、ある人気の男性若手俳優のインタビュー記事を雑誌に載せようとして発生したトラブルを描いているエピソードがありました。
その俳優は、幼い頃に両親から捨てられ、床屋を営むおじいちゃんに育てられました。
俳優がインタビューで自身の生い立ちを語った際、「床屋のおじいちゃん」に育てられた、と表現したのですが、記事ではその部分が「理容師のおじいちゃん」となっていました。
この架空の世界では「床屋」は差別用語とされ、使用が禁止されていたのです。
しかし、この人気俳優は、おじいちゃんが「床屋」に誇りを持っていることをよく知っていたので、「床屋」という表現にこだわり、「理容師」なら雑誌の発行は認めない、と言い出します。
「床屋」という表現では検閲に引っかかって出版できません。
しかし、俳優はそれでも「床屋」でないとダメだと言って一歩も引きません。
両者は何度も話し合いの場を持ちますが、一向に解決する糸口は見つかりません。
そうした時に、ある人がアイデアを出します。
それは、「理容師」という表現のまま雑誌を発行し、その後、俳優が出版社に対して訴訟を起こす、というものでした。
こうすれば、雑誌は発行できます。
そして俳優は「床屋」という表現がどれほど大切なものか、ということを訴訟のニュースなどで存分に語ることができる、というものでした。
物語はその後、このストーリーに沿って進んでいきました。
私は、この部分を読んで、久しぶりに目から鱗が落ちた気分になりました。
上のアイデアが出るまでは、俳優と出版社が「床屋」という表現をめぐって対立していました。
つまり、「俳優」⇔「出版社」という構図で、「床屋」という表現をするかしないかで争っていたのですね。
しかし、このアイデアは、この争いは「床屋」という言葉を不当に禁止している架空の法律に原因がある、というように視点を変えたのです。
つまり、「『床屋』という言葉を禁じている法律」⇔「俳優・出版社」という構図で、「床屋」を禁止している法律がよいのか、という争いに変えたのです。
この小説はあくまで架空の物語ですが、私たちの日常でも、このように視点を変えることで解決できることがありそうだな、と思いました。
例えば、夫婦で旅行に行く際の行き先で意見が対立したとします。
夫は海外旅行に行きたい、と言うのに対して、妻は国内旅行がいい、と言います。
せっかく時間とお金を使うなら少し贅沢して海外に行きたい、という夫。
言葉や風習が違う海外ではくつろげないので、絶対に国内がいい、という妻。
人間は対立していると思うと、相手を言い負かそうとしますので、思ってもいないこともこじつけで言ってしまいます。
自分の思いを主張するだけでどちらも譲ろうとしません。
このような時に、冷静になって、お互いの思っていることを少し具体的に話してみると解決の糸口が見つかるかも知れません。
実は、夫は温かいリゾート地でのんびり過ごしたい、妻は温泉でゆっくりしたい、と思っていたとしたらどうでしょう。
海外⇔国内という構図から抜け出て、温かいところで温泉にでも入ってのんびりする、という落としどころが見えてきます。
その結果、沖縄のスパ&リゾートで過ごそうか、ということになるかも知れませんね。
二者択一の問題に思えることも、このように視点を変えることで解決できることがある、ということをこの本で改めて学びました。
小説を読むとセンスのよい会話が見つかる、それが自分の話し方にも活かせる、ということを書きました。
今回は考え方や物事の捉え方でも小説は勉強になる、ということを述べたいと思います。
最近、有川浩さんの「図書館戦争」シリーズを読みました。
15年ほど前に出版され、アニメや映画にもなったので、読まれた方も多いと思います。
このシリーズの中のあるエピソードで、私は問題の解決法を学びました。
この本は、書籍の内容やその中で使用する言葉などに対する検閲が非常に厳しい架空の世の中を舞台にしています。
そうした中で、ある人気の男性若手俳優のインタビュー記事を雑誌に載せようとして発生したトラブルを描いているエピソードがありました。
その俳優は、幼い頃に両親から捨てられ、床屋を営むおじいちゃんに育てられました。
俳優がインタビューで自身の生い立ちを語った際、「床屋のおじいちゃん」に育てられた、と表現したのですが、記事ではその部分が「理容師のおじいちゃん」となっていました。
この架空の世界では「床屋」は差別用語とされ、使用が禁止されていたのです。
しかし、この人気俳優は、おじいちゃんが「床屋」に誇りを持っていることをよく知っていたので、「床屋」という表現にこだわり、「理容師」なら雑誌の発行は認めない、と言い出します。
「床屋」という表現では検閲に引っかかって出版できません。
しかし、俳優はそれでも「床屋」でないとダメだと言って一歩も引きません。
両者は何度も話し合いの場を持ちますが、一向に解決する糸口は見つかりません。
そうした時に、ある人がアイデアを出します。
それは、「理容師」という表現のまま雑誌を発行し、その後、俳優が出版社に対して訴訟を起こす、というものでした。
こうすれば、雑誌は発行できます。
そして俳優は「床屋」という表現がどれほど大切なものか、ということを訴訟のニュースなどで存分に語ることができる、というものでした。
物語はその後、このストーリーに沿って進んでいきました。
私は、この部分を読んで、久しぶりに目から鱗が落ちた気分になりました。
上のアイデアが出るまでは、俳優と出版社が「床屋」という表現をめぐって対立していました。
つまり、「俳優」⇔「出版社」という構図で、「床屋」という表現をするかしないかで争っていたのですね。
しかし、このアイデアは、この争いは「床屋」という言葉を不当に禁止している架空の法律に原因がある、というように視点を変えたのです。
つまり、「『床屋』という言葉を禁じている法律」⇔「俳優・出版社」という構図で、「床屋」を禁止している法律がよいのか、という争いに変えたのです。
この小説はあくまで架空の物語ですが、私たちの日常でも、このように視点を変えることで解決できることがありそうだな、と思いました。
例えば、夫婦で旅行に行く際の行き先で意見が対立したとします。
夫は海外旅行に行きたい、と言うのに対して、妻は国内旅行がいい、と言います。
せっかく時間とお金を使うなら少し贅沢して海外に行きたい、という夫。
言葉や風習が違う海外ではくつろげないので、絶対に国内がいい、という妻。
人間は対立していると思うと、相手を言い負かそうとしますので、思ってもいないこともこじつけで言ってしまいます。
自分の思いを主張するだけでどちらも譲ろうとしません。
このような時に、冷静になって、お互いの思っていることを少し具体的に話してみると解決の糸口が見つかるかも知れません。
実は、夫は温かいリゾート地でのんびり過ごしたい、妻は温泉でゆっくりしたい、と思っていたとしたらどうでしょう。
海外⇔国内という構図から抜け出て、温かいところで温泉にでも入ってのんびりする、という落としどころが見えてきます。
その結果、沖縄のスパ&リゾートで過ごそうか、ということになるかも知れませんね。
二者択一の問題に思えることも、このように視点を変えることで解決できることがある、ということをこの本で改めて学びました。